偶然が引き起こした奇跡、数奇な運命。
なんとも夢見心地な響きだとは思いませんか? これはクリテラクスで出会ったある男性と、彼のドールの物語です。
クリテラクスの道路はコンクリートでなだらかに舗装されていますが、地面が固いので私に言わせればプラスマイナスゼロ、といったところでしょうか。まあ、フィルナイルの凍った湖でスリップするよりはずっと良いのですが。
ああ、話が逸れました。私が夜雨に濡れたクリテラクスの道路で長距離スリップの世界記録に挑戦していたときに、彼との出会いがあったのです。
少しよれた無難なスーツ、長く使い込まれた革靴と同じ革の鞄。手に持ったビニール製の安い傘は慌ててその辺の店で買ったのでしょう。持ち手の辺りに値札が付いたままです。
見ての通り、彼は普通のクリテラクス人ではありませんでした。クリテラクスの生まれ育ちでない方は首を傾げることでしょう。この説明では、彼はどこにでも居そうな働き者ですから。
「ドール」
ご存知ですね? クリテラクスが造り上げた精巧な機械生命の通称です。もちろんそれなりの価格で取引がされます。けれど手の届かない幻造世界の生命という訳でもありません。
クリテラクスでそこそこの生活を送る国民の傍には、彼らのサポートをするドールの姿が必ずあります。
そう、私が出会った男性は自分のドールを持っていませんでした。
私が雨で全身を濡らしていたのに思うところがあったのか、彼は私を自宅に招いてくれました。高層ビルのまばらな灯りが私たちを見下ろすオフィス街から、深夜の電車に揺られて五駅。郊外をしばらく歩くとそこが彼の住む一室のあるマンションでした。短過ぎず、長過ぎもしない時間の中で、私たちは少しの話を互いに持ち寄ったことを覚えています。
例えば、そう。仕事や趣味など、常套句にも等しい他愛もない話です。
個人情報なので名前は伏せますが、彼は三十代後半。私も年齢を聞かれたので、もちろんしっかり答えました。優に四千は超えている、国籍はヤルトーノイだと。最初彼は私に酔っ払いの疑いを掛けましたが、私の国籍で嫌疑はすぐに晴れました。ちなみに雨はちっとも止みません。
職業は本人いわくしがない営業。クリテラクスでの花形は研究職や技術職ですから、彼が自身をそう評するのは無理もないことなのでしょう。ですが、その営業が居ないと立ち行かなくなるのが開発ひいては会社というものです。魔法に神秘性を見出さないクリテラクスという国であれば、なおさら。
比較的セキュリティのしっかりしていそうなマンションのエントランスを通過した私たちは、四機あるエレベーターのうち一つに乗り込みました。
あれ、そこそこしっかりした住居ではないですか。移動時間に彼を励ましていた私は何だったのでしょうか。私の引っ掛かりをよそに、場所は彼の家の扉の前へ。カードキーの解除を示す電子音が、ここが彼の家であることの何よりの証拠でした。彼が開けた扉に反応して、自動で点灯する室内。事前に聞いていた、大したことない一人暮らしの男にしては広い間取り。
これはもしや、いえ、もしかしなくとも、豪勢な食事のご相伴に預かることができるのでは?
私は激しく落胆しました。大いに絶望しました。テーブルを拳で叩きました。
眼前には湯気を立てる……昼間飽きるほどに広告で見た定期配送のワンプレート。あと最安値であろうインスタントコーヒー。
彼の「なんか面倒な奴に話しかけたかもしれない……」なんて独り言は聞こえていません。聞こえていませんとも。
そうして私が怒りに打ち震えていたとき、彼の左手薬指に輝く指輪が目に入りました。今までは雨粒の反射でよく見えていなかったようです。その指輪はシンプルなものでしたが、彼の持ち物と同様に手入れが行き届いていました。
改めてテーブルを見ると私の分と彼の分でマグカップも食器も二人分。けれど家の電気は彼の帰宅と同時に点いた。
指輪、一人にしては広い家、揃えられた食器。
あからさまな一人分の空白。
……ああ、そういうことなのだな。と、嫌でも気付かされました。
目が合った彼はバツが悪そうに笑い、まあ気付かない方がおかしいか、なんて言います。そうして、何かを決心するように一つ頷いてから、私にある頼みごとをしてきたのです。
これも何かの縁かもしれない、誰にも話せなかった昔話を聞いてくれないか。
こういうときのための、お誂え向きの雨ではないのですか。この暮らしに不自由ない部屋では雨粒がガラス窓を打つ音でさえ輪郭がありません。
私はとうに飲み終えていましたが、彼が両手で持ったマグカップにはコーヒーがまだまだ残り、随分ぬるいように見えました。暖を取るのに不十分でしょう。けれど彼にとって、そんなことはどうでもいいようでした。その暗く沈む水面をどこか無感動に眺め、そうして彼の昔話は再び口を開いたのです。
彼は学生時代、とりわけ目立つものはなかったけれど、雷の魔法を得意としていたと、そうして話を始めました。
まあ見れば分かります。魔力を使わない仕事をしている意味が分からない。クリテラクス以外の国なら確実にそう言われるであろうほど、魔力が高そうですから。
一応、留学はしなかったのか尋ねると、彼は自嘲気味に笑いました。魔法に強い大国、アトラシオンに行く勇気はなかったのだと。
クリテラクスとは違う思想を持った国、それにアトラシオンへ向かうには、寒冷化の進むフィルナイルか、国内情勢が不穏さを増しつつあるラクシスを越えなければなりません。最短距離のノヴィリムは国境を閉ざしています。……皮肉にもクリテラクスで魔法の才覚を潰すことが、最善解の一つになり得たし、実際彼はそうしたから今があるのでしょう。
そんな俺にも、幸せな時間は確かにあったんだ。
彼は言いながら、薬指で煌めく銀の輪をそっと触りました。
同じ学部に在籍していた「深窓の令嬢」と——ああ、これは彼の通っていた学校で、彼の奥様が当時呼ばれていたあだ名だそうです。学校でもぶっちぎりで一番綺麗だったけれど、病弱であまり教室には居なかったとのことで。
実際、彼も彼女のことを凄腕の職人が持ち得る全ての技術を注いで造り上げたドールと間違えて、普通にひっ叩かれたとか。面白いですね。
というか平凡を自負するのにやや無理がありませんか? 実際、クリテラクス以外でなら非凡でしょうに。でもこうして、クリテラクスに居ることが答え? ……まあ、そうとも言えますね。
まだ話の途中でした。どうやって彼女の心を射止めたのか聞いていません。……なるほど、辛いときに助けることができるよう、できるだけ側に居た、と。そのときに、彼女が子供を望むことさえ難しいことを知ったけれど構わなかった……と。
彼はカーテン、いえ、正確にはカーテンの外の雨に濡れた街並みに目を向けて、一度言葉を切りました。
周りから祝福された婚姻だったそうです。そうしてこの家に暮らし始めたのだとか。家具や食器も、生活に関わることは全て二人で相談して決めて。
だからこそ、彼女の提案はごく自然なものであったのでしょう。自分達の娘として、ドールを迎えてみないか、と。
二人で囲う、彼女自身の手料理が並んだ食卓で、屈託のない笑顔と一緒に出された提案。こんなこと、本当は言いたくないけれど、きっとあなた一人を遺してしまう。それでは寂しいし、幸せにしてくれたあなたに何もできないのは許せない。
彼は頷いたそうです。どんな子がいい? と彼女に問われたとき、彼は具体的な答えを出すことができませんでした。自分たちの子供なら、どう転んでも可愛く見えてしまうと思ってしまったから。それを聞いた彼女は、ドールの設定は自分が考える、と申し出ました。
記憶に残っているのは、彼女が時間を掛けて仕込んだミートローフの味と、目の前の眩しい笑顔だったとか。
いよいよドールを迎える日、彼の起床は遅いものでした。前日に長い残業をしていたから。彼女は既に車でドールをオーダーした店まで出発していることが、リビングのテーブルに置かれたメモで分かりました。
随分と日が高くなってからも、まだ彼女は帰って来ません。オーダーの打ち合わせにも時間が掛かっていたから、引き渡しのときに急遽不具合でも見つかったのか? いずれにせよ、彼女の体調も心配だ。サプライズにしたいと思っていたら申し訳ないけれど、二人を迎えに行こう。そう思い。
そうして駅前に出た彼の目に入ったのは、今まで見たことのない高さの火柱だったそうです。
概要は私が彼に断りを入れて、当時のニュースから抜粋します。本人の口から全てを語らせるには、あまりに重いものですから。
当時、彼女が運転していた車は、速度超過の取り締まりから逃れるために暴走していた他の車に衝突され、エンジンに衝撃を受けました。車体は激しく炎上し、彼女とドールは原形が分からないほど変わり果てた姿になってしまったそうです。
しかし、彼女の左手が握っていた、ドールの脳とも言える生体チップには奇跡的に傷一つなかった。彼に遺されたのは彼女の指輪とドールの生体チップでした。
当時の犯人はその場で逮捕され、然るべき刑罰を受けたとのことですが……彼の顔を見たら分かります。自分より大切な命を奪った人間に対して、適切な罰なんてこの世界にはありません。
彼は嘘のように綺麗な生体チップと女性用の指輪を、上品なアクセサリーケースから取り出して私に見せてくれました。ここまで傷みがないのなら、彼女が事前にしていたというドールの設定も守られているでしょう。この生体チップをドール専門の店に持ち込めば問題なく彼ら夫婦の「娘」が現れるはずです。
しかし彼は首を横に振りました。妻が残した生体チップで、ドールをオーダーすることが今もできないのだと。自分に勇気が足りないのは昔からで、今も嫌というほど思い知らされているのだ、と。
もう冷えたマグカップに、それでも彼の両手は添えられたままでした。電気設備の行き届いたこんなにも明るい部屋で、彼の影は夜の底を覗くように暗く。
どれくらいか、漫然とした時間が過ぎていきました。ようやく動き出した彼は、生体チップと彼女の指輪を手に取り、柔らかい布で指紋を拭き取り始めます。日々のルーティンなのでしょう。その動作に迷いはなく滑らかです。そのままの流れで、彼は生体チップと彼女の指輪を元の通りアクセサリーケースに仕舞い込み。
そうしてこの夜は更けていきました。
クリテラクスの週末というものは、概ね予想通りのシステマティックさをしています。長く話し込んだために当然遅い目覚めから始まった一日は、カフェを探すところから。
信じられないことに、彼は昨晩の冷凍宅配食と安価なインスタントコーヒーを供に何年も過ごしてきたというのです。別にケチを付ける気など毛頭ありませんが、朝食まで同じは絶対に許しません。えぇ……みたいな顔したってダメです。今日こそ豪勢な料理にありつきます。
彼に任せてもロクな店がなかったので(信じられますか? 適当に選んだ店全ての口コミが壊滅的なんですよ!)主導権は私のものになりました。なりましたというかしました。何ですかその物言いたげというか胡乱げな目は。私に任せておくと良いのです。レベルの高い飲食店探しなんて簡単です。何年『編纂者』やってると思ってるんですか。さあ見付けました、行きますよ。
また駅のホームの世話になりましたね。全てが機械的に整備されたこの国の秩序は、それが地下であっても変わりありません。掲示された案内図から目的の駅を探すのは簡単なことでした。やや無機質ではありますが、汚染魔力の影響が少ないのは間違いなく良いことでしょう。正面の電子広告を埋めるのが「あの」定期配送される冷凍ワンプレートのサービスであることは、全然、これっぽっちも頂けませんが。やっと解放されたと思ったらコレですか。私はルート営業をかける多忙な社員ではありませんよ。一応会社勤めではありますが。
睨み付けていた電子広告は電車の到着によってようやく消え去りました。運の良いことにシートが空いていたので二人で掛け、目的の駅への到着を待ちます。もちろん地下鉄ですから、目を潤す緑が見える車窓はありませんが、致命的なトラブルもまた、見当たりません。クリテラクス国民の彼はもとより、私自身も別の意味で無機質な空間には慣れていますから、この味気なさには目を瞑るとしましょう。
目を瞑るといえば、なぜか他の乗客と目が合う回数が多い、そう、やけに見られているような気がします。ドールからの視線はもちろんありません。
首を傾げていると、隣の彼が小さい液晶を差し出してきました。そこには文字が綴られています。
『お前の見た目を特別な職人が手掛けたドールだと思ってるんだ、多分。ヤルトーノイ人が他の国で馴染んでるとは考えないさ』
ああなるほど、そういうことでしたか。
「何でドヤ顔なんだ……?」
目的の駅の階段からは狭くくすんだ空が覗いています。まるで私たちの先行きを阻むかのようではありませんか。
ですが何も問題はありません。これから向かう店には、出発前に予約をねじ込んでいますから。
その喫茶店は、クリテラクスに似つかわしくない外観をしていました。規則正しい街の片隅に生えたイミテーションの木立、その中に建つアンティークな外観。悪くないですね。……これではどこぞのトスルークェノのようではないですか。訂正します。中々に味わい深いですね、さすが私の審美眼。トスルークェノにこんな風情存在しませんからね。いざ入店です。
「いらっしゃいませ」
私たちを出迎えたのは、美しいかんばせをしたドールでした。仕草は丁寧で品があり、他国のメイドのような服を身に纏っています。案内のために店の奥へ進む彼女の、スカートの裾が床の近くを優雅に踊り。
ドール本人に引けを取らない、年代物であろう家具で揃えられた内装は、見事の一言です。示された窓際のテーブル席に二人で掛けます。本当にラッキーでしたね。店内はこれで満席ですから。
席に着いた私たちにメニュー表を持って来たのは、先程とは違うドールでした。そう、ここは美しいドールがメイドのように接客をしてくれることを売りにしている喫茶店なのです。なるほど、確かに店内で給仕をするドールは全員が目を見張るような顔立ちをしています。
……ところで、なぜ彼は眉ひとつ動かさずドールから水を受け取っているのでしょうか。そういえば私に会ったときも、私の顔を全く気にもしていませんでしたね。周りを見てみなさい、客はドールの動きを目で追っていますよ、私のことも見ていますよ!
「どうしたんだ? メニュー見ないのか?」
「むしろあなたはメニュー以外見えていないのですか!」
この鈍ちん! ぼんやりさん!
「……?」
「このドールたちの美しさが分からないのですかあなたには!」
「ドール? 綺麗だと思うよ」
彼はどこか噛み合わない答えを返すばかりです。ドールではないのでリペアのしようがありませんが。
「びっくりするほど綺麗だとは思わないのですか?」
「それは……その……」
「何です」
「妻が」
「あっごちそうさまです」
もういいです、聞いた私が馬鹿でした。そうですねあなたの奥様驚くほど綺麗な方でしたね。そりゃ綺麗なドールに目移りしない訳です。
……本当に、ここに奥様と娘さんが座っていたら良かったのですが。
革張りの表紙を開くと、なるほど、中々に上品なラインナップをしていますね。紅茶一つとっても、あの有名なザフォーグの老舗から輸入してきた銘柄が並ぶような様相です。流石といったところでしょうか、私もこの銘柄は好んでいますよ。経費で落とそうとしたらツァグ——『編纂者』の手記の執筆を支える優秀な助手です。今回は不在ですが——にバレてトスルークェノの耳に届き、失敗に終わった苦い思い出が蘇ったので己に正直になり、心の中で文句を言うことにしました。
トスルークェノの脳はドールより無機質に違いありません。
「随分悩んでないか……?」
しばらく何も言わなかった私を見て、頼むものが決まっていないと彼は考えたのでしょう。ある意味正解ではありますが。
「まあ、そうですね。どれも捨てがたいのですが、残念なことに私の胃は有限です。そういうあなたはどうなのですか?」
「それが、だな……」
少しの時間を共にしただけ、ですが彼の言動はそう分かりづらいものではありません。普段は歯切れが悪いように見えて、案外そうでもないのです。なので、今みたいに正しく歯切れが悪いときは、彼の中でイレギュラーが起きています。仕方がないので確認してみましょうか。
「何です?」
「メニュー表を渡したはいいが、この国では見ないものばかりだったから、俺もまだ何を頼めばいいか決まってない」
そういうことは早く言いなさい!
「いいですか、ここのメニューはザフォーグの文化を丁寧に再現しています。まず飲み物ですが、お嫌いでなければ紅茶が良いと思いますよ」
「商談でたまに出てくるな」
「味を多少なりとも知っているのであれば、なおのことオススメです。今までと違うものを味わえるかもしれませんよ」
店内の緩やかな時間の流れどおり、予約した食事の時間はかなり余裕があるものだったので、私が彼のメニューを決める手伝いをすることになりました。
「これは? 紅茶に花が入っているのか?」
「ええ。意外かもしれませんが、合うものなんですよ。ところでなぜこの茶葉を?」
彼が指し示したのはメジャーな銘柄——ではなく、知る人ぞ知る、ある花の名を冠した銘柄でした。中々見る目があるじゃないですか。
「その花……妻が娘に付けた名前なんだ」
……付けようとした、ではないのですね。
「通が選ぶ銘柄ですよ、それ」
「そうか。これにしようかな」
「次は食事、デザートも選びますからね。まだまだ行きますよ」
「お前、まさか……」
「あなたにとって青天の霹靂でも、私にとっては太陽が東から登るのと同じことです。もちろんフルコースで行きます」
飲み物と違い、写真の手助けも借りながらメニューを決めてドールに頼みます。彼はしばらく悩みこそしましたが、品物を選びました。……やはり見る目がありますね。
なかなかに良いではないですか。
銘柄に拘るだけでなく、丁寧に淹れられた紅茶は香り高く、芳醇な味わいをしています。彼も一口飲んでから目を瞠りました。分かっているじゃないですか。頼んだ紅茶はポットサービスですから、まだまだ味わうことができます。鼻腔を擽る花の匂いに酔いしれているうちに、どうやら料理の準備も終わったようです。ドールが危なげない手つきで鮮やかな色合いのサラダを載せたトレーを持って来てくれました。思わず手を合わせようとして……違いますね。ここは今私が所属している会社でもワイマルトでも、ましてや、ヤルトーノイでもありませんでした。合わせるために上げかけた手は、不自然のないようそっと下ろしておくとしましょう。
瑞々しさを感じさせるレタスやオニオンの淡く爽やかな彩りに、甘味のある野菜を中心に作られたドレッシングが別の華を添え、輪切りの黒オリーブのアクセントも見逃せません! ……おや? 彼の元にも、同じ、サラダが。
「ちょっと」
「次はどうした……?」
「同じものを頼んでは! 味の、違いが! 楽しめないでしょうが!」
もう、この人はどうしてこう、妙なところで鈍いのでしょうか! 名店なのですから、色々と味わいたいに決まっているでしょう!
「いや、コース頼んだからセットのサラダはどうしても同じになる」
「あっ、失礼しました」
いやはやお恥ずかしい。少し取り乱してしまいました。しかし紅茶と前菜の時点でここまでとなると、メインも十二分に期待ができますね。
「一日の最初から肉料理食べるのか……」
「何を仰るのですか当たり前でしょう」
やや辟易した面持ちの彼が頼んだのは白身魚のポワレのパイ生地添え。
ザフォーグやアトラシオンの料理に明るくないという方のために補足を加えるとするなら、ポワレというのはフライパンで食材の表面をカリッと、中身はふんわりと焼き上げる調理法です。
恐らく魚には塩胡椒の下味が付けられ、オリーブオイル辺りがふんだんに使われていることでしょう。ソースは……この爽やかでコクのある匂い、定番のレモンバターに違いありません。
しかし、パイ生地? レモンバターソースはあまり合いそうにないですね。……いえ、パイ生地の方には別のソースが使われています! 何て素晴らしいのでしょうか!
「ワインが欲しくなりますね」
「朝から? それと喫茶店って言ったのはお前だ、耐えてくれ」
「仕方がない人ですね」
「何で俺がお前に呆れられてる……?」
ポットサービスの紅茶には当然、温かさを保つためのティーコゼーが——これはポット全体を覆うキルト生地の帽子のようなものですね、この丁寧な気遣いによっていつでも温かく美味しいまま、紅茶を楽しむことができます。二杯目はミルクでも入れてみましょうか。
ええ、気になりますよね。私の頼んだメインディッシュが。牛肉のステーキ……おや、そう肩透かしを食らったような顔をするものではないですよ。大衆向けのレストランで提供されるソレとは訳が違うのですから。
中が赤身で焼き上げられた牛肉は上品かつ寂しさを感じさせることのない、絶妙な厚みでカットされ、周囲をやはり鮮やかな野菜と……これはルッコラ、香草ですね。爽やかかつ奥深い香りが飾り立てます。野菜やソースと共にステーキを一切れ頬張れば、香りとともに柔らかさと旨みが口の中に広がります。これはこれは、おみそれしました。食事も進むというものです。この先も待ち遠しいですね。
「良いですねえ」
デザートはフランボワーズのムース。フランボワーズや金箔、飾りのチョコレートや透き通る艶やかな紅いソースで上品に彩られた円柱状のムースにナイフを入れると、カスタードやスポンジ、チョコレートの層が匂いと共に顔を覗かせます。これは紅茶を別に頼みましょう、先程のミルクよりストレートの方が合うでしょうから。
「何ですか? その目は」
「見かけによらず食べるな……?」
「何を仰るのですか、人は見かけによらないものですよ。あなただって」
「俺か?」
彼は私の指摘に驚いたようでした。どうせ街角のガラスに映る凡庸な男、とでも自分を定義していたのでしょう。何から何まで全部的外れですよ。呆れた人ですね。その謙虚さを十分の一、いえ百分の一でもいいのでトスルークェノに分けてください。お礼なら私がしますので。
「例えば神様が、理不尽にもあなたに属するものを奪ったとしましょう」
「預言とか意味深なこと言わないだろうな」
「違いますよ、ものの例えです。あなた何にも不便なんてない、なんて顔しておきながら、どうしても手放し難いものの一つ二つ、あるのではないですか?」
「……」
彼は何かにはっとして、それから少し考え込んだようでした。窓から差す日が段々と登っていくものですから、影は短くなっていく一方でしたが。
「いやあ、美味しかったですねえ」
「何で俺が全額支払ったんだ……?」
「財布をあなたの家に忘れました」
「忘れたことは覚えてるのか……」
おやまあ耳が痛い。別にわざとではありませんよ? ありませんとも。ええ決して。
喫茶店を後にして昼下がりのクリテラクスのそこそこ栄えた街を歩いていると、やはり人と同じような割合でドールの姿がありました。
今の彼はドールを持っていなくても浮くことはなく、むしろどこの店でオーダーしたのかを訊かれています。私の。いえ私自身はれっきとしたヤルトーノイ人ではあるのですが。彼も律儀に娘さんをオーダーした店と思しき名前を口にしていますが、大丈夫ですかね? その店のハードルが上がっていやしませんか?
そうして彼の部屋があるマンションに帰って来たとき、事件が起こりました。
エントランスの自動ドアの前、彼が慌て出したのです。休みの日でも着ているスーツ、そのポケットや手入れのされた鞄の中をしきりに漁っては首を傾げ、やけに顔を青ざめさせているではないですか。
「どうされました?」
「カードキーが」
「カードキー?」
「どこにもないんだ……!」
なるほど、道理で自動ドアが開かない訳です。しかし、らしくもない焦りようではないですか。さして暑くもないのに、今にも汗、というか冷や汗をかきそうなほど。
「そこまで焦る必要はないでしょう」
「カードキーを落としていたらどうする!」
「きっと拾われて、手元に戻って来ますよ」
いかにもありそうなことを言い聞かせても、彼の焦りは増していくばかり。
「もし拾った人間に悪意があったらどうするんだ! あの中には妻の指輪と娘が居るんだ! もし、もし……あの子にまた何かあったら……」
「あなた……」
「……今度こそ、どう生きていけばいい…………?」
ついに彼は項垂れてしまいました。こちらに背を向けてじっと影を見つめているから、その表情は窺い知ることができません。
「……あなたは高層階の住人ではありませんか?」
そこに飛び込んできたのは若く、しかし落ち着いた女性の声。一体のドールでした。言葉から推測するに、このマンションの住人のうち誰かのドールなのでしょう。
「ああ、君は……」
「以前は故障を治してくださり、ありがとうございました。何かお困り事でしょうか?」
流石と言ったところでしょうかね。クリテラクスの技術が窺えます。察しがいいドールです。
「実は……鍵を失くしてしまったようなんだ」
「でしたら私がロックを解除しますので、せめてエントランスまで入りましょう。ロビーラウンジで少し休んではいかがですか?」
「あ、ああ。そうだな。ありがたい、君の言う通りにしよう。」
……徳って積んでおくものですね。見てますか? トスルークェノ。
「では、私はこれで失礼します」
「ああ、本当にありがとう。君の主人にもよろしく」
ドールは一礼をしてから去り、私たちはロビーラウンジの高級なソファに腰掛けました。そこで気が付いたのですが、何かが足りません。
「そういえば、あなたネクタイピンは?」
「ネクタイピン?」
「そうです、昨日着けていたじゃないですか」
「……ああ! 休みに出掛けるなんて久し振りだったから、細かいところまで手が回らなかったのかもしれないな」
そこで私は彼をもう一度観察しました。
仕事の日と休みの日で変わらない出で立ち。落とし物をするようには見えない几帳面な性格。滅多にない休みの日の外出。
「もしかして……」
「どこへ行く? ……待て、エレベーターのボタンを連打するんじゃない! 一回押せば来る!」
私がエレベーターに乗り込み(彼を取り残しかけましたが)高層階に駆け込み、彼の部屋のドアノブに手を掛けると、ドアはあっさりと、何の抵抗もなく開きました。予想通り、ですかね。
「開いたじゃないですか、きっとカードキーは部屋の中ですよ」
「お前の財布みたいにか?」
ちょっと、それは言わない約束ですよ。
彼は靴を脱いで、それをややおざなりに揃えてからリビングまで真っ直ぐ進み、昨晩のアクセサリーケースを再び、けれど昨日より恭しく手に取りました。中の指輪と生体チップ——奥様の大切なものと娘さん——はもちろん綺麗なままで。
「ああ、よかった。無事でいてくれたんだな」
短い付き合いではありますが、彼がここまで安堵した表情を初めて見たような気がします。
「……あなたの答えは決まりましたか、いえ、その答えを最初から知っていたことに気が付きましたか?」
「そうかもなあ……うん、そうだったな」
ここまで失いたくないなら、彼はそう言って、この黄昏の光に満たされた部屋で娘さんの遅い迎えを決意しました。が。
「行ってくる!」
彼はリビングから玄関へ一目散に駆け出しました。
「今からですか? 何時だと思っているのですか!」
「十八時二十三分だ!」
分かってるじゃないですか! 夕方ですよ!
「まだ間に合う!」
彼の手に奥様の指輪と娘さんの生体チップと一緒に、いつの間にか握られていたのは車の鍵。
「え、あなた車持ってたんですか?」
それならどうして今日私たちは、散々このクリテラクスの地下を牛耳る鉄道の世話になっていたのでしょうね!
「ペーパーゴールドだ!」
「誇るところじゃありませんよ!」
なるほど? 一瞬で疑問が晴れましたよ! なおのことどうして彼は慣れないハンドルなんて握っているんですかね!
「娘を迎えに行くんだ、少しでも楽をさせてやりたいだろ……!」
「……安全運転でお願いしますよ!」
結局、安全どころか法定速度ギリギリを攻めてはいましたが、周囲のクラクションはなかったので、まあ許容範囲でしょう。私ですか? クラクションがハーモニーを奏でます。
「ドールの制作をお願いできますか?」
「もちろんです、が……二体目でしょうか?」
「あっ私はドールじゃないです。彼の友人です」
当時彼ら夫婦が娘さんのことを頼んだ、外装からして品の良さそうなドール専門店は、まだ営業時間内でした。
やや困惑する受付の方に、彼は娘さんの生体チップと当時の契約書を差し出します。
「これは……! 偶然ですね、今日は丁度彼女を手掛けた職人の先生がここにいらしていますよ。どうぞお掛けください、先生を呼んで参りますので」
「奥さんのことは知っているが、君とは初めましてだな。隣のドールを手掛けたのは誰だ?」
「あっ違います観光客です」
いかにも、な職人ですね。ざっくり纏めた髪につなぎ姿、オイルの匂い。歯に衣着せぬ言葉。私の訂正を残念そうに聞き入れてから、彼女は彼と握手を交わしました。
職人曰く、当時の奥様の見目をその日専門店に居たことで目にして気に入り、娘さんの造形には特に手を掛けたそうです。
そして、職人である彼女も娘さん——かつてのドール——を忘れられず、もう一度作っていた、のだとか。
「本当に申し訳ない! 弔うべき家族への冒涜と捉えて貰って構わない。しかし私は、彼女達の……あなたのご家庭の美しさにすっかり魅入られてしまったのだ」
彼女は勢いよく頭を下げ、声を絞り出すように謝罪をしました。けれど彼はそれを責めるでもなく、むしろ静かな気配を滲ませます。
「いえ、弔いだなんてそんな。ただ、自分の中で、顔も見たことのないあの子がずっと生きているんです」
「……そうか。ならば、その生体チップ……いや、娘さんの心を貸してくれ。すぐに彼女は目を覚ますさ」
「どうか、よろしくお願いします。先生」
彼は深々と頭を下げました。
視線を左右へ。手を握ったり開いたり。とにかく落ち着きがない、といったところですね。珍しい姿を見ました。
「契約書には娘さんの姿などの記述があるのでしょう? なぜそんなに緊張しているのですか?」
「…………」
「なんですか?」
この歯切れの悪さ、もしかして。
「……読めなかったんだ、緊張し過ぎて」
やはりそうでしたか! そうでしょうね彼のことですから!
「その緊張が今この瞬間に全部帰ってきていやしませんか?」
「ぐっ……」
私の言葉に返すものがないかのように彼が俯いた瞬間。
「待たせたな、彼女が君の……君と奥さんの娘さんだ」
まるで天啓のように、職人の彼女の声が降り。彼は弾かれたかの勢いで顔を上げました。
クリテラクスに来てから数多くのドールを目にしてきましたが、それでもなお人目を惹きつけて離さない、咲き誇る花の色の眼差し。仄かな薔薇色に染まる頬に小さな唇が形作る柔らかな微笑み。彼と同じ色の長く艶やかな髪。
彼女は彼を一目見て、改めて微笑みました。彼はおずおずと手を伸ばし、彼女のたおやかな手にそっと触れます。やがて彼女の手は濡れていき、彼の弱々しい声が静かに閉店間際の店を満たしました。
「ごめんな……! 遅くなってごめん……」
……雨にしては、随分と温かいものですね。
「……なぜ私が後部座席なのですか?」
「当たり前だろう! 助手席が一番安全だしお前にナビができるとは思えない!」
「四千年の歴史を甘く見ないで頂きたいものですね!」
「歴史じゃなくてお前を甘く見てるんだ!」
「なんとっ!」
……まあ、娘さんの鈴を転がすような笑い声に免じて許して差し上げましょう。
行きよりも緩やかなスピードで街灯を追い越すハイウェイ、車のランプに照らされる均一なコンクリートの道路。
それにしても。
「お腹が減りましたね、そろそろ食事の時間では?」
「要らないアラームだな……デリバリーでも探すか」
「デリバリー?」
それはまた、どうして。
疑問に答えたのは娘さんでした。
「知ってる? お父さんね、料理だけは得意じゃないの」
「どうしてそれを!」
にわかに慌て出すあたりを見るに、本当のことのようですね。
「お母さんがね、私にお父さんのこと、たくさん教えてくれたの」
「お母さんが?」
「そう。料理は得意じゃなくて強気でもないけど」
ちょっと、自分で聞いておきながらミラー越しの顔が青褪めていますよ。しゃんとしてください。
「優しくて、クリテラクスで一番有名な大学を主席で卒業して、大企業ですぐに出世するくらい凄くて、それでも家族が一番大切だって言ってくれる人がお父さんなんだよ、って」
「……そうか」
なるほど。奥様がそこまで言い聞かせるように初期設定を組んでいたというのなら、娘さんが誕生するのに時間が掛かったのも当然ですね。
「それにね」
彼女は更に言葉を足します。
「お父さんはずっと一人じゃなかったよ、生体チップを手入れしてくれたでしょ? そのとき伝わったお父さんの魔力が、私にお父さんのこと、全部教えてくれたんだよ」
ハイウェイを降りた道路、信号機が赤に変わり彼は窓の外へ視線を逃しました。当然、思うところがあったのでしょう。
「……運転代わります?」
「絶対にやめてくれ」
少しの沈黙の後、信号機がまた色を変えたあたりで娘さんが再び口を開き、
「お父さん」
「どうした?」
「スーパーに行こう? 今日は私が夜ご飯を作るよ。お母さんに料理を教えて貰ったの」
一つの提案を彼に持ち掛けました。
「そんなにソワソワしなくても」
「心配だろう……!」
娘さんが軽やかに歩みを進める、何の変哲もないスーパーの床はまるで磨き抜かれたアトラシオンのダンスホールといった風情。
食事の買い出しに来た人々が、面白いほどに次々と彼女に釘付けになっていきます。整った指先が選んでいく材料なんて、何の変哲もない売り物がスポットライトを当てられ、彼女を彩る名脇役にでもなったかのようです。
「怪しい人に声を掛けられでもしたらどうしよう」
「ちゃんと見てます? 娘さんに目を奪われて誰も話し掛けるどころじゃないですよ」
まあ、初めての娘ですから心配もしますか。嫌味でもなんでもないため息が思わず漏れましたが、彼はそれに気が付くどころではなかったらしく。
「ただいま!」
「……ただいま」
「またお邪魔します」
「お前……」
何ですか? 今日こそご相伴に預かりますよ私は。
「二人とも座っててね」
「手伝いは……」
「お父さんは電子レンジ使うのと、電気ケトルでお湯沸かすのが限界でしょ」
「あなた……」
「それ以上言うんじゃない……」
彼は両手で顔を覆っています。本当に料理「だけ」できない人のリアクションですよそれ。
それに反して娘さんのなんと手際の良いことでしょう。スーパーで見せた足取りと同じような軽やかさで料理が進んでいきます。
ただ、買い物かごを見るに、夕食にしては色々なものが入っていたような……?
私が考えているうちに鼻腔を擽ったのは、香ばしさに加えてどこか爽やかな甘い匂いでした。きっと奥様はとても料理が上手かったのでしょうね。
そう思い彼の方を見ると、その娘さんとは違う色の目が微かに潤んでいます。あの色は奥様のものだったのでしょう。彼がやけに涙もろくなっていることに関しては、何も言わないでおきますか。
「この匂い……」
「ええ、いい匂いですね」
「あの子を迎えようと、妻と話した、日の……夕食、と……」
「……そうでしたか」
彼が話してくれた日の夕食は、確か。
「お待たせ! 冷めないうちに食べて!」
娘さんが食卓に並べてくれたのは、奥様が作ったという、あの日のミートローフでした。
*
だが契約関係だろう? トスルークェノ
デリカシーのない人ですね。重要なのはそこではないですよ。 キゾシュイェグツウィ