「ツァグ、それ以上花椒をかけるのをおやめなさい。私の目が痛いです」
「分かりました、先生。ですが私にとってはもう少しかけたいところなのです」
「おやめなさい」
普段はこれ以上ないほど優秀な助手なのですが、困ったもので、彼女は辛い味付けをなぜかやたらと好む傾向があります。
ああ、このお店ですか? 私が口コミから見つけた、評判の良い大衆食堂です。もちろんお値段もリーズナブル。いつあのトスルークェノが給料をカットしてくるか分かりませんからね。こういったお店のレパートリーはあって困るものではありません。何より、美味しいですしね。
そう、今私たちが滞在しているのは、南方にある国、チャンソンです。観光通りや上層を説明するなら活気がある、であったり、豪華絢爛の言葉が相応しいでしょう。
他? ……まあ説明は省きましょう。観光目的なら縁のない場所ですからね。
辛味や旨味、複雑な味わいを成立させた色とりどりの料理を囲み笑い合う客、注文を取る晴れやかな店員の声、私の目の痛み。
「ツァグ」
「なんでしょうか」
「おやめなさいとあれほど」
「花椒は足していません、唐辛子を増やしただけです」
全く、食事に譲れないこだわりがあるとは。一体誰に似たのでしょうね。私はツァグを横目に店員を呼びました。
「ご注文ですか?」
「高原茶のお代わりを」
「追加の山椒もお願いします」
「あっ山椒は要らないです」
止まらぬ涙をハンカチで拭い、いよいよ本日のお楽しみとのご対面です。まさかツァグの頼んだ料理が先に来るとは思いませんでしたが。
高原茶の温かく、重みのある風味を舌の上で転がしながら、まずは艶のある白米を眺めます。何もワイマルトだけの文化ではないのですよ? 濃い味の食事と白米を合わせたいのなら、むしろチャンソンだって負けてはいません。ツァグがワイマルトのふりかけの要領で白米に花椒をかけているのは見なかったことにしましょう。知りませんからね私は。
白米とコントラストを作り上げる紅は麻婆豆腐です。二皿注文しましたが、ツァグの頼んだものは鮮烈な色合いで未だに煮立っています。どう食べるつもりなんでしょうか彼女は。ちなみに先程から花椒が足され続けていたのがあの皿です。
隣には冷やし胡瓜とクラゲの和え物。もう既に辛いのでこちらから頂くことにします。シャキシャキとした胡瓜はツァグの振り撒く空気で灼けた喉を程よく冷やしてくれます。塩と胡麻油の塩梅が丁度良いですね。
対してクラゲの和え物は、細く切られていますが噛みごたえがあります。酢の酸味がさっぱりとしていて、主菜の前に持ってこいです。
反対側には飴のように光る茶色とこれまた鮮やかな緑色。豚の角煮です。箸を乗せるだけで切れる肉の柔らかさは、皮を焼き、肉を茹で、甘く煮込む複雑な工程で生まれます。添え物の青梗菜も新鮮であることが一目で分かります。
ああ、箸ですか。確かにワイマルトとチャンソンだけの食器ですね。甘く見たものではないですよ。私もツァグも、箸の扱いには自信がありますからね。柔らかく崩れて皿に落ちないよう気をつけながら、肉を口に運びます。
これです、これ! 甘く濃厚で香ばしく、しかもとろけるような肉! この味を待っていたのですよ。隣の湯気が辛いですが。あのせめて私が苦しんでいるのですから笑顔で味わってくれませんか。ツァグ、なぜあなたは淡々と濃い麻婆豆腐を食べているのでしょう。無表情は元々ですが。
ちょっとスープに行きましょうか。お願いですからそのとんでもない麻婆豆腐を早く完食してくださいツァグ。何を味わっているのですか、あなた普段はもう少し早く食事をするでしょう。
ツァグは一旦置いておくとして、ふわりと浮いた卵と薄味のスープがなんとも胃に優しい塩気を運んでくれます。胃といえばツァグが辛いものを食べて調子を崩すのを一度たりとも見たことがありません。どうなっているのでしょうか彼女の消化器は。もういいですこの水餃子は私が一人で食べてしまいますから。もっちりとした柔らかい生地をしたそれは中に詰まった餡で見かけよりずっしりとしています。ここは辣油を……垂らすつもりでしたが辛味は食傷気味ですし冷ましている麻婆豆腐もありますので、ここはシンプルに醤油で頂くことにしましょう。
「先生」
「何でしょう」
「私の分も残しておいてください」
「これは私の分です。別に注文なさい」
ゆっくり食事をしているツァグのために私が取り分を宣言すると、彼女はほんの少しだけ眉を顰めました。そして手を挙げ店員を呼び。
「……店員さん、唐辛子を」
またですか! こちらが先にお手上げですよそんなの! 私はツァグの手を下げさせました。
「唐辛子も要らないですほら二個くらいは差し上げますから」
「三個で」
そう言いながら彼女は花椒の入った瓶をゆるりと揺らしてきます。
「くっ……いいでしょう」
この水餃子六個入りなんですがね。分かっていて言っているのでしょうか。言っているのでしょうね。まあいいでしょう、物足りなさはありますが、味に変わりはありません。口の中で皮を破った瞬間に溢れ出る肉汁は柔らかなすり身の肉餡をしっとりとさせながらも旨味に溢れています。次の機会には小籠包も食べてみたいものですね。隠し味の擦り生姜も主張し過ぎることのない量です。……残り二個なんですけどね。
「すみません、白米のお代わりを」
「私もお願いします」
「二つで」
「かしこまりました、白米二つですね!」
麻婆豆腐に合わせる白米を頼んでいる間に、こちらを頂きましょう。黄金色を少し濃くしたような油で輝く四角、春巻です。黄色い辛子を付け、熱さに注意しながらひと齧り。パリリとした皮の中からやや濃く、しかししつこさのない餡の味付けと一緒に春雨や木耳、人参に筍、豚肉、椎茸が一気に口の中に広がっていきます。少し熱いのはご愛嬌。皆さんも少しずつ食べてくださいね。春巻の餡にはとろみがあるため、他のものより熱く感じやすいのです。一気に食べようものなら火傷をしますよ。隣のツァグとかでない限り。
注文した二本を食べ切る頃には、熱された麻婆豆腐もすっかり食べ頃の熱さになっていました。初手でこれより激烈な色をしたものを食べていたツァグについては考えないでください、私も考えたくはありません。まあ安心してください、こちらに関してはごく標準的な辛さですから。ですが、辛いものが苦手な方は別のメニューを注文することをお勧めしますよ。人にはどうしても苦手なものがありますからね。
さて、いよいよ麻婆豆腐とのご対面です。丁度白米のお代わりも届きましたね。これは名前の通り、辛めの味付けがされた餡と挽肉の掛かった豆腐です。味気ないと思いましたか? とんでもない! チャンソンの料理は華やかかつ複雑な味わいをしていることを、ここまで来たあなたたちが知らないはずはない、そうでしょう?
豆腐と餡を一掬い。紅と茶色の透明感のある餡には花椒が良いアクセントを足してくれています。絹豆腐も火が通り過ぎることなく、滑らかな食感。旨味と辛味のバランスが取れていて、身体の芯から温まり、お代わりの白米が進みます。隣の麻婆豆腐ですか? あれは別物です。
「お待たせしました、食後のデザートです!」
「ありがとうございます」
この冷えた皿に盛られた白は杏仁豆腐。また豆腐と思ったでしょう? 全然違うのですよ。紅がメインだった麻婆豆腐とは反対に、白い豆腐にアクセントの紅いクコの実が王冠のようにちょこんと載せられているこのデザートは、まさしく甘味です。ちなみにツァグは月餅というもったりした生地の中に甘い餡子と胡桃の入った焼き菓子を……もう食べていますね。彼女、甘いものも別に苦手という訳ではないのです。
私が注文した、つるりとした白い杏仁豆腐は喉越しが良く、冷えながらもまろやかな甘さが身に沁みます。ご馳走様でした、と言うべきですね。
「ねえ、聞いた? シェンジュイ社の新作!」
「『絢爛な羽衣』のこと? でも五着すら作ってないんでしょ? それに防寒性とかも……」
「綺麗な服に機能性なんて関係ないじゃない!」
「まあ、確かにカタログでは綺麗だったね。なんか珍しかったから覚えてるよ」
それは食後のデザートをすっかり食べ終え、高原茶を楽しんでいるときのこと。
綺麗なもの。大衆食堂の喧騒から私は聞き捨てならない言葉を拾いました。
「……芸術品ですかね?」
「先生、ブランドの最新作に近いかと」
もちろん私より耳の良いツァグにも聞こえています。
「何とも面白そうな話ではないですか。ツァグ、このお店のお会計を済ませたら調べてみましょう」
「分かりました、先生。彼女達はカタログと仰っていましたので、書店から当たるのが良いかと」
「奇遇ですね。私も丁度同じ考えに至ったところです」
今回の目的が決まりました。その「絢爛な羽衣」の実物を一目、あわよくば満足の行くまで鑑賞することです。
「先生」
「はい、何でしょう」
「伝票です」
「あの、ツァグ」
「はい、何でしょうか」
「銀行に行くまで割り勘で良いですか?」
大衆食堂から離れた私たちは近くにある、比較的大規模な本屋へ向かいました(もちろんその前に銀行に寄りました)。なかなかの品揃えに見えますが、ファッション誌の新刊コーナーを探せば目的の「絢爛な羽衣」の写真は見つかるのではないでしょうか。それぞれの旅荷物を人や書籍にぶつけないよう、注意して本屋を探します。特にツァグは仕事道具のタイプライターを常に持ち歩いていますからね、扱いには慣れたものでしょう。ちなみに彼女がその気になれば私は空を飛ぶことができます。いえ魔法ではなく。
さて、ツァグが雑誌コーナーを探している間に少し寄り道をしてしまいましょうか。ああ、ありましたね『編纂者』の手記。紀行ベストセラーなんて嬉しいポップまで添えられ、平積みまでされているではありませんか! まあ増刷の度に見本誌を頂いているので見るだけですが。バレるとマズいのでちょっと確認しただけですが。
「先生、まさか探していないなんてことは」
「ありませんねえ」
いつの間にか背後を正確に捉えていたツァグをいなしながら、雑誌コーナーへ戻ります。
「こちらです、先生」
流石私の優秀な助手。やはり掲載誌を既に見付けていたのですね。どれどれ、まずは写真を見るとしましょうか。
「アウターでしょうか」
「とんでもない、これは立派な芸術品ですよ」
透き通るような素材を惜しげもなく使った羽織ものが、写真の中で光の加減によって極彩色の、しかし上品な煌めきを放っています。魔力で満たされているという、凡人では立ち入ることさえ叶わぬ楽園、幻造世界の産物と言われたら信じてしまいそうなほどです。是非、是非実物を鑑賞したい、うまいこと美術館とかに展示されないものでしょうか。
「先生、見てください」
ツァグがページの右下を指し示しました。
「シェンジュイ社の住所と電話番号が記載されています。問い合わせができるのではないでしょうか。……覚えますか?」
「いえ。この雑誌、せっかくですから買って行きましょう」
「分かりました。……先生」
「分かっていますよ今度こそ財布にお金入ってますので」
「おめでとうございます! 大当たりです!」
「えっ」
ガラガラと景気良く鳴る鈴、抽選機から溢れた金色。なんということでしょう。書店の福引会で一等を当ててしまいました。先程の雑誌のレシートが、一等。
「先生、先生。まずは景品を受け取りましょう」
「え、ええ。そうですね」
受け取ったのは白い封筒。旅行チケットか何かでしょうか。とりあえず書店の片隅で封筒を開けてみることにします。
『シェンジュイ社新作発表会御招待チケット二枚』
「これは……」
流石のツァグも心なしか声が弾んでいます。
「ええ、ええ」
私も驚きを隠せません。これはもしや、
「日頃の行いというやつですかね」
「違うと思います」
「さて、服を見に行く服がありません」
「今着ているもので良いのでは?」
「なーにを言っているのですかツァグ。甘いですねえ、チャンソン有数のブランドの展示会ですよ? ある程度着飾って行くのがマナーというものでしょう」
と、いう訳でですね。私たちは今シェンジュイ社の旗艦店に来ています。普段から誰でも商品を購入できる場所なので、ここで当日のコーディネートを決めてしまおうという魂胆です。ちゃんと銀行には寄って来ました。いつまでもあなたたちのおもちゃにされる私ではないのですよ、分かりましたか?
「ここに来るまでにシェンジュイ社のコレクションを調べていましたが、意外ですね」
ハンガーに掛けられているコレクションを眺めながらツァグが呟いたので、私は無言で続きを促しました。
「昔から白や黒の服だけを発表してきたブランドだったはず。急に色の着いた服を出すなんて……」
「色のない中に置かれていたら、さぞかし見栄えがするでしょうねえ。さあ、ツァグ。大丈夫だとは思いますがこの服を試着して来てください」
「分かりました」
見繕った服を渡しながら、ツァグの疑念を反芻します。……確かに妙ですね。彼女は急にスタイルを変えたようにも見えるデザイナーや社の上層部に疑念を抱いたのでしょう。しかし困ったことに、私もツァグもシェンジュイ社に関して、雑誌や端末で得られる程度の知識しか持ち得ません。
「……ただの華やかなパーティー、という訳ではなさそうですね」
自分用の服を適当に見繕いながら、私は滞在先のホテルでの予定を調べものに変えることにしました。
「やはり妙ですねえ……」
ホテルのポットで湯を沸かし、路面店で購入した高原茶を飲みながらスクロールする端末には、当たり障りのない文面しか並んではいません。まあ当たり前のことなのですが。
それでも。
「今回『だけ』は一般客用のチケットが存在するのですね」
私は机上にある白い封筒を見遣りました。それには抽選で当てたばかりの『シェンジュイ社新作発表会御招待チケット』二枚が入っています。つまり、普段であればこのようなチケットは存在しないのです。
『昔から白や黒の服だけを発表してきたブランドだったはず——』
優秀な助手であるツァグが呟いた言葉が脳裏に浮かびます。つまり、一般客用のチケットも「絢爛な羽衣」も本来存在しないはずのものだった?
「論理の飛躍をし過ぎていますかね……」
端末に所狭しと表示された情報の波は、しかし私に答えを教えることがありません。
「まあ、取り越し苦労という言葉も存在するくらいですからね。後でどうとでもなるでしょう」
ここは気を取り直して、シェンジュイ社の新作発表会まではチャンソン観光に精を出すことにします。
「おはようございます、先生。シェンジュイ社の新作発表会まで二日ありますが、いかがなさいますか? 資料を調べましょうか」
折り目正しく挨拶をするツァグ。しかし彼女の提案には賛成できません。
「いえ、観光通りに行きます」
「え」
「果実棒に冷やしライチ、チャーシューまんに小籠包! あなたは! これらを! 味わうことのないままチャンソンから私を帰らせる気ですか!」
私の情熱にツァグは少しの沈黙を保ち、
「経費ではなく自腹でお願いします」
そう、死の宣告を渡してきました。
「しかしいつ見ても、狭い空ですね……チャンソンで広いのは海くらいでは?」
頭上には鉄錆が覆うパイプ群が、さながら違法建築のように所狭しと交差しています。遠い空は白く煤け、いつでも曇天に見えるほど。
……以前はここまで巨大ではなかったと思うのですけどね、この魔力集積装置。
マスカットの果実棒を一口齧ると、キラキラと薄光を照り返す飴と中のマスカットが小気味よく口の中で砕け、弾けます。中の果汁は調理されてなお、冷たく瑞々しいままでした。
「先生はあの装置の用途をご存知なのでしょうか?」
私は手元の果実棒にしか興味がありませんでしたが、どうやらツァグはそうでもないようです。
「四千年以上生きていても、分からないことは案外あるものなのですよ」
「つまりご存知ない、と」
「そういうことです。何に使うのでしょうねえアレ」
なんか蠢いているから使われてはいるのでしょうけれど、用途は全くもって不明です。まあいいです次のお店でチャーシューまん買えれば。
「それにしても狭い空ですねえ。ツァグ、海でも見に行きましょう、海」
チャーシューまんの店に寄る途中で買った冷やしライチの新鮮さに喜んでいた私でしたが、いつまで歩いてもべったりと纏わりつく影のような、いえ上空に存在するのですが。まあそんな魔力集積装置に嫌気がさしてきました。そこで更なる観光地を追加しようかと思ったのですが。
「先生」
「何ですか?」
地図を開き、そこに視線をやったままのツァグが淡々と情報を渡してきました。
「ここから一番近い海は地図によると貿易港です」
「あやっぱりやめましょうか」
もう中止です、中止。食べるだけ食べてホテル帰ります。お土産屋とか行きます。
「やはり並んで買う名物は美味しいですねえ」
チャーシューまんです。チャンソンでも有名なこの観光通りで圧倒的な人気を誇る、あのチャーシューまんです。列を見て少し迷いましたが、並んで良かったと心から思います。
できたての柔らかくどこか弾力のある生地から飛び出すのは、濃くやや甘味のあるたれに漬けられた分厚いチャーシュー! 生地が白米の代わりをしてくれるので、ずっしりとした重みとは裏腹に気軽な食べ応えを提供してくれます。片手で持てるのも最高です。ほらツァグだって片手にタイプライターの入った鞄、もう片手にチャーシューまん。片手でタイプライター入りの重量物を持っているのはどう考えてもおかしいですが今更です、気にしてはいけません。
「おや、丁度いいところにお土産屋の並びが。これはチャーシューまんを完食しないといけませんねえ……ツァグ?」
やや斜め下を見ると、ゆっくりというかのんびりチャーシューまんを味わうツァグ。
大衆食堂で見た光景が、再び。
「だから妙なタイミングで味わって食べ始めるのはなぜなのですか!」
なぜか間の悪いツァグを待って、ついに私たちは土産物屋へ入りました。私の目的はチャンソンの紅茶メーカー、トントゥオ社の茶葉です。フレーバーティーの缶があれば良い……のですがたった今最高に変わりました。店にずらりと並んだ高級感溢れる紅い缶! いつものフレーバーに加えていくつか買っていくことにしましょう。ツァグがいませんがどうせ花椒とか唐辛子の並びに居るはずなので問題はありません。
……ツァグが、いない?
「コレ経費で落とすチャンスではありませんか?」
私は小声で呟きながら、予定より多い数の缶を買い物かごにそっと入れました。
「熱っ!」
「いきなり食べるからです、先生」
今、小籠包からの襲撃を受けています、助けてください。いや美味しいですよ? 美味しいんですけどね?
肉汁が熱いのですよ!
しつこさはないけれど味わい深い肉汁がなんとも……いや熱いです! 水とか欲しいです! そういえばさっきツァグが冷やしライチを追加で買っていたはず、少し分けて貰いましょう。大衆食堂での水餃子のお返しが……ない! 完食しています、なぜ! 先程まであんなにゆっくり味わっていたではないですかあなた!
私は数分ほど、チャンソンの華やかな観光通りで悶絶する羽目になりました。
……まあ、全体的に良い観光だったのではないでしょうか。
「おはようございます、先生」
「ええおはようございます。私が選んだだけあって、よく似合っていますね」
私の称賛に、しかしツァグは眉を顰めます。
「どうしました?」
「先生もお似合いですね……適当に選んでいたように見えましたが」
そこでしたか。
「私が何年『編纂者』をやっているか、あなたであれば分かるでしょう? 自分に似合うものを選ぶくらい、朝飯前なのですよ。さあ、行きましょうか」
さて、またここに来ましたね。シェンジュイ社旗艦店、見渡す限りの白と黒。新作発表会といえど伝統はそのままのように見受けられます。
会場の中心近くに堂々と立つご老人、ツァグが調べたので分かりますよ。彼が現在のシェンジュイ社のデザイナーです。……なのですが。
空気が変ですね? 何というか、息苦しさを感じる、というか。
咄嗟に辺りを見回しましたが、私たちのように招待を受けた一般客は新作コレクションの並びにどこかソワソワとしながらも浮き足立っています。
反してシェンジュイ社の関係者。デザイナー含め、どこか鋭い牙のような気配を感じるのは気のせいでしょうか? そう、喩えるならトスルークェノが取引で大勝負を仕掛ける前に近いです。ツァグも近いものを感じたのか、こちらを見上げてきていたので丁度目が合いました。
「先生……その、コレクションの配置が不自然ではありませんか? なぜ、今一番話題性のある『絢爛な羽衣』が中央にないのでしょうか」
「確かに、そうですねえ」
ツァグの言う通り、「絢爛な羽衣」は追いやられるように会場の隅のラックのハンガーに吊るされています。そして。
それを睨み付けるかのように見つめる女性が、一人。……ただの一般客、という訳ではないようですね。で、あれば。彼女は私たちの知らない事情を知っているかもしれません。
「こんにちは。あなたとお話しがしたいのですが、お時間よろしいでしょうか」
「……どちら様」
彼女の態度は素っ気ない通り越して冷たいものでした。ですが私はめげません。トスルークェノより冷酷なヤツは存在しないのですから。
「しがない物書きと、その助手です。『絢爛な羽衣』の美しさを間近で鑑賞したくてここまで来てしまったのですよ」
「それなら好きに見るといい」
「え、本当ですか?」
「先生……」
ツァグの冷静な嗜めも、彼女の次の一言で遠くに追いやられてしまいます。
「だってあの作品を作ったのは私だから」
デザイナーが、二人? おかしいですね、そのような話は聞いていません。私たちの止まった反応を見て、彼女はハッとしたようでした。
「そうだった。普通の人が事情を知ってる訳ない。ごめん……私はリラ・シェンジュイ。このシェンジュイ社の後継者になる……はずだった」
彼女、リラはどうしてか、あの煌めく「絢爛な羽衣」と相反する暗い目をしています。
「あなたさえ良ければ、ですが……少しお話を伺ってもよいですか?」
リラは小さく、しかし確実に頷きました。
なるほど? つまりシェンジュイ社は後継者たる子孫が一人しかおらず、成長した後継者である彼女、リラ・シェンジュイは今までのシェンジュイ社の伝統とは異なるスタイルのデザイナーに成長したのですね。そうしてリラに伝統を守らせたいシェンジュイ社は作品を作らせるチャンスをあえて彼女に——挫折の舞台であることを隠してから——与えたのでしょう。まさかリラが手掛けた「絢爛な羽衣」がチャンソンで話題になると思いもせずに。だから生産数が極度に絞られていた。けれど一市民はブランドの限定生産品だと誤解をしたのですね。それがリラの追い風となった。
だからこそ、会場のこの空気、ですか。さながら水族館の深海魚用の分厚い特製ガラスが罅割れたかのようです。つまり長居したくありません。ですが当事者の一人であるリラは背筋をしゃんと伸ばして立っています。
握り込んだ手を、どうにか隠しながら。
……仕方がないですね、ここは私が一肌脱ぐならぬ、一肌着ることにしましょうか。
「リラ、私に『絢爛な羽衣』を一着、貸して頂けますか?」
「急にどうして? 試着なら構わないけど……」
「まあお任せください。私に一つ、考えがあります」
それから私は会場の中心へと歩き出しました。
「ほら! 既存の作品に『絢爛な羽衣』を重ねたらどちらも美しいではないですか! 『絢爛な羽衣』は透けるような生地ですから既存の作品をきちんと見せてくれますし、既存の作品は『絢爛な羽衣』を更に彩り豊かにしてくれる、私の見立て通りですね!」
「先生? いきなりどうされたのですか?」
申し訳ないのですがツァグ、今だけはあなたの疑問にお答えすることができません。会場の視線という視線が一気に私に向きます。ですがその程度で怯む私ではありませんよ。その場で腕を差し上げながら片足を軸に半回転すれば、白黒の上に架かる虹が会場のライトを受けて辺り一面に散らばります。
「あの人は……?」
「綺麗、分かんないけどモデルさんとかじゃない?」
さざめきは招待された一般客から伝播していきます。
「そういえば『絢爛な羽衣』ってモノトーンの服と合わせた写真がなかったよね?」
「もしかしてこの最高のコーディネートをシェンジュイ社は今日まで隠してたんじゃないのか! そうだとしたら最高だ!」
そしてさざめきは大海のうねりとなって、シェンジュイ社にも届いてゆきます。
「私も……シェンジュイを名乗っていいのかな……?」
小さく息を継いだリラの声も。
「とんだ親不孝者だと思っていたが、勘違いをしていたのだな……」
現デザイナー、リラの父親の深海から光を浴びたような感慨も。
全てを飲み込んで、シェンジュイ社を取り巻く海はやがて凪いでいきました。
「アナタたちは一体何者なの」
新作発表会が幕を閉じ、私たちとリラは関係者室に移動しました。リラに声を掛けられたのです。
そうですねえ、私個人は彼女に好感を持っています。ツァグに目配せをすると、彼女は「分かりました」と小さく嘆息しながら答えます。つまり、彼女も賛同しているということで。
「私はしがない物書きですが、こうも呼ばれているのですよ。『編纂者』と。あなたの覚悟に敬意を表して、特別にお教えしましょう」
私の言葉を受けたリラは、少しだけ目を見開いた後で、ひとつ頷きました。
「それなら私はアナタたちの知恵に敬意を表して、贈り物をする。どうか受け取って」
リラが差し出してきたその羽衣は朝の光を受けて、さながら手中に収めた虹のように輝いています。
「これは……『絢爛な羽衣』ではないですか。本当に良いのですか?」
「もちろん。アナタたちが持つのに相応しい、そう思ったからこうして渡してる。……ありがとう」
「そうですか。では、お言葉に甘えて」
作り手であるリラの手を離れてなお、その虹は輝き続けて。
きっとこの光はもう翳ることなどないのでしょう。
さて、今回の旅も楽しいものでした。仕方がないので人の心のないトスルークェノが鎮座する会社に帰るとしますかね。私は少し考え、シェンジュイ社のセットアップに「絢爛な羽衣」を羽織ることにしました。陽光を受けて、なんだか私ごと煌めいているようです。
「さて、行きますよ。ツァグ」
「そのまま帰られるのですか?」
「当たり前です。あの高慢チキなトスルークェノに一泡吹かせてやりましょう」
*
ふざけるなよ。 トスルークェノ
ふざけているのは私を見るなり、急にコーヒーを吹き出したあなたでは? キゾシュイェグツウィ
お前帰って来たときの服装鏡でよく見てもう一度言ってみろ。 トスルークェノ