Gravity I

序章 月が欠けた夜に、星の道標を

 親愛なるあなたへ

 星が降るような冴え冴えとした夜、あなたと再び巡り合ってから、七度太陽と月が入れ替わりました。

深い森で、ただ静かに自らの終着点を見定めようとするあなたの、頬を伝わない涙を拭うことさえできずにいた自分自身に耐えかねてあなたをここまで連れ出してしまいましたが、その後、暮らしに不便はありませんか。ここにはあなたの安全を脅かすものはありません。もし困るようなことがあったら、家の誰でも構いません、声をかけて下さい。必ず何らかの助けとなるでしょう。今のあなたに必要なものは、安全な場所での長い休息であるはずです。

 使用人が廊下を移動する微かな足音。それだけであなたの意識がいとも簡単に浮上してしまうことを知っています。扉をノックする音にも当然気が付いていて、しかし最低限の反応以外を示すことがないのは、長く続く意識の中でずっと家族を悼み続けて、感情が擦り切れてしまったからでしょう。

 そんなあなたが以前こちらに向けた微笑みを、ずっと覚えています。春の夜を思わせる穏やかな笑顔。今は難しいことは充分に理解していて、けれどあの微笑みをあなたがもう一度取り戻す。そんな日が来ることを願わないときはありません。

 聡明なあなたのことですから、恐らくそう遅くないうちに周囲に心配を掛けないように、と無理をしてでも笑顔の仮面を被り始めてしまうことでしょう。あなたの選んだことであるのなら、こちらにそれを止める権利は存在しません。

けれど忘れないでいて欲しいのです。辛いときに、笑っていなくてもいいのだと。たとえできることなど何ひとつなかったとしても、傍にいます。だから、あなたに降り掛かる悲しみや苦しみを、一人きりで抱え込もうとしないでください。その感情は一人で受け止めるべき大きさではないと思うのです。悲しみを分けて、少しだけ、心の隙間を空けて。そうしてできたあなたの余白に、穏やかなひとときを添えることができたなら。もう一度、あなたが笑ってくれたなら。

この手紙をあなたに渡すことはないでしょう。もし何かの手違いであなたがこれを目にしてしまったときは、どうかこの手紙に書かれた言葉など気にしないで欲しいのです。慈悲深いあなたのことです、こう書き添えておかなければあなたはこちらの願いを何としてでも叶えようと考えてしまうはず。重ねて綴りますが、どうかこちらの一方的な願望などお気になさらずに。一人の人間の自分勝手なエゴを、あなたが汲み取る必要などないのですから。

この先を望めないというなら、いつかあなたが希望を手にするその日まで傍にいます。孤独を恐れるのならその手を取りましょう。困難に直面することがあれば、力を尽くします。

 だから、もう少し。もう少しだけあの日握り返してくれたその手を、離さないでいて欲しいのです。あなたにとっての夢や希望が見える場所まで、その手を引くことを許して貰えませんか。

 心から、あなたの幸福を願って。

 その手紙には署名はおろか、宛先さえ記されてはいなかった。封筒に入れられてはいるものの、封もされていない。主の帰りを待つ机、その引き出しの奥深くには同じような手紙が隠すように仕舞われていて、けれど誰かが手に取るそのときを待っている。

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