読了推奨:なしor GravityⅤ 大禍再演の日
賑わいの火照りを落ち着けた、短い夜の底。
観光都市の、それこそ昔であれば何の変哲も見出すことなどできなかっただろう品のある内装をしたホテルの一室。意識を失くしてから数時間は経つ少女にようやく休める場所を用意して、知らず詰めていた息を静かに吐き出した。
当初は普通の観光客に向けられたホテルでも取ろうかと考えていたが、むしろこれでよかったのかもしれないと思い始めている。ヴェルツェハイト自身も、今眠っている少女もこのアトラシオンという国にとって決して無視のできない存在だったから。
例えば、だ。そこそこのサービス。これでは周囲の人間の口が軽くなる。珍しい客が来た、それも貴族が北方の一部にしか居るはずのない、夜色の髪をした少女を連れて、なんて噂を流されたら大変なことになる。これが高いサービスに変わったなら、貴族の象徴である青い目の人間なんて普通に居るだろうし、秘密だって守られる。なぜか? 従業員は高いレベルの教育を施されているうえ、そもそも藪を突かれたくない貴族は判断を誤らない限り他人を追及することがない。
こんな簡単なことに今まで気が付かなかったのかと愕然とするが、すんでのところで踏み留まることができた。結論に至るまでの過程が悪く浅はかであることは一度どこかに避けておくことにした、頭が痛くなってくるので。賭けと取引とそれから……ともかく金銭やら何やらの工面を急いで終わらせたが、できればしばらくこの手合いのことはしたくない。
まあ、ヴェルツェハイトはともかく、彼女の方はそれでも観光都市で目にすることは滅多にないが。
魔法と神秘が根付くアトラシオンにとって、魔力の高さはある種の高等市民権と引き換えにすらなり得る。砕いて言ってしまうなら格を知らしめる装飾品のように扱う人間だって存在する。従属させるような振る舞いで魔力の根源——幻造世界が応えてくれるかはヴェルツェハイトには分からないが。
ヒーリエ、という夜色の髪をした種族がアトラシオン北方を治めるラトラジオーネ領に隠れ住んでいる。隠れているから中々お目に掛かれない。当主であるラトラジオーネ家もヒーリエだが、こちらもアトラシオン王家に次ぐ権力を持つにも関わらず隠れているから貴族の関わりにさえ顔を出さない。つまりアトラシオンで普通の生活を送っていたら彼女達には会えないのだ。
ではなぜそこまでヒーリエがアトラシオンから隠れているのか? 単純な話だ。この種族は基本的に高い魔力を持つ。悲しいことにどこにだって悪い考えというものがあって、下手に金だけ手にした者がヒーリエを支配下に置こうとした事件が報道されたのも古い話ではない。
最近になって、ヘクトファーグ家が座す西方を本拠地とするアトラシオン国軍に一人のヒーリエが足を踏み入れたことにより似た事件は数を減らしたが、ヒーリエもすぐに手ぶらで領外を歩こうと思わないだろう。
そこまで考えてから、改めて質の良いベッドに横たえた少女へ目をやる。丁寧に伸ばされた髪がシーツに夜空を広げていた。可憐だが本人の無表情と落ち着きが怜悧な印象を残す顔は常より白く、睫毛が長い影を濃く落としている。
……この綺麗な顔のお陰で訳アリの貴族がヒーリエ人身売買に手を染めてしまった感じになりかけたため、ヴェルツェハイトは焦燥を隠すのに必死だった。それはもう焦った。
一回列車に乗り直して記憶の中の割と隅の位置にあった仕立て屋の住所へ駆け込んだ。そしてこれまた頭の隅の隅にあった顧客用の合言葉をどうにかして思い出して彼女の服を仕立てて貰った。今度は金にモノを言わせた訳アリ貴族が観賞用にヒーリエを買った感じになりかけてヴェルツェハイトは再び盛大に焦った。顔には出さないで。なお少女は全く気付いていなかった。ヴェルツェハイトが焦りを顔に出さなかったせいかもしれない。少女がずっと地面に突いていた補助用の杖もよろしくなかった。まだ脚が治り切っていないから手放すのは難しいが、それ以上に少女がその杖を気に入っているようだったので、持たせたままにしていたのだ。
遠くで貴族の道楽にしてはなんかおかしい、鞄二つとも貴族の方が持ってるしと言っていた観光客には悪いが、はっきり聞こえていた。あと道楽でも何でもない。むしろこの少女を気の済むまで遊ばせてやりたいところだ。
そうして少女の好きなように観光地を歩いて貰ったから、慣れない環境で無理をして、疲れさせてしまったのかもしれない。魔法で様子を見たところ、ただ眠っているだけで大事はなかった。いよいよ張り詰めていた緊張の糸が切れる。けれどこうなる前にヴェルツェハイトが少女を止めてやればよかったのだ。
もし一つでも、何かが違っていたらこうして太陽の下を自由に歩くエルファリアの姿があったはず、なんて叶いもしない願いを投影して感傷に浸っていたから。
エルファリア。
今はその美しくも悲しい名前を彼女が知るべきではない。いや、知って欲しくない。
何回、その名前を呼びたかっただろうか。数えてさえいなかったから今更な話ではあるが、ヴェルツェハイトにとってそれは空虚な夢と相違ない。だってそんな光景は想像さえできないのだから。思い出して欲しい、なんて。その願いがどれだけおぞましいことか、痛いくらいに知っている。
エルファリアは自分のことを何一つとして覚えていない。家族を喪ったことも、恩師とはもう逢えないことも。
自分の心を砕いて、二度もヴェルツェハイトを守ったことも。
きっとエルファリアの決心がなければヴェルツェハイトは無事ではなかっただろう。けれど傷付いて欲しい訳ではなかったのだ。二度も守られて、ようやくヴェルツェハイトが目を覚ましたとき、既にエルファリアの記憶や神経は損傷していた。何も覚えていない、身体が上手く動かない。エルファリアが掠れた声で口にした事実はあまりにも残酷だった。
アトラシオンに眠るという神様は、どうしてエルファリアのことを守ってくれなかったのだろう。どうして彼女と彼女の大切なものばかり傷付けていくのだろう。
現在の治癒魔法理論にはざっと目を通したが、肉体の損傷に働きかけるものしかなかった。脳や神経は治せない。
——認めたくない。
魔力ならまだ余っている。今の理論が足りないというのなら、別の理論で欠落を埋め合わせたらいい。
魔法の一つに、幻術というものがある。唯一、人の神経に干渉できる術。アトラシオンではこの魔法を扱う十五歳以上の人間に特殊な免許を渡し、国の監視下に置くことになっている。……通常では。
昔、幻術を扱う術師の下で魔法について手解きを受けていた。師匠のことは思い出したくない。良い思い出がほぼないからだ。幻術を扱えるようにはなったが、色々なことがあってヴェルツェハイトはアトラシオンの支配層から隠れるような生活を送っている。
つまり、だ。幻術をどう扱おうと監視の外にいるのだから見付かりさえしなければいい。
治癒に幻術を足す。するとどうだろう、エルファリアの見えない怪我が少しずつ治っていったのだ。目を覚ましたばかりのときは上手く起き上がることさえできなかったのに、今はきっと補助用の杖がなくても歩くことができる。
——記憶は、戻らない。
けれどエルファリアはたった一つ、何気ない約束だけを覚えていた。約束を交わした相手がヴェルツェハイトだということは忘れていたが、それで構わなかった。
同時に、痛切な願いで補われた心臓が酷く軋んだ。
だってあんまりじゃないか。そんな小さな約束だけを希望にして、エルファリアは一人痛みに耐え続けてきたということになってしまう。約束なんていくらでも叶えてあげられたはずなのに。
それなら。せめて、エルファリアが受けた傷だけでも治さなければ。
魔力に満ちたアトラシオンではある程度魔力を消費してもいずれ元の量に戻る。けれどヴェルツェハイトの魔力は日ごとに減っていく。
このうえなく高い魔力を持ったエルファリアを治すには、同じく高い魔力が必要だった。後は、そう。
『影に魔力を渡している』
足元の黒が揺らいでいるようだ。魔力が足りなくなってからは時折視界が霞んで頼りにならないから、今はよく見えてはいないがどうやら影はヴェルツェハイトを咎めているようだ。
「心配しなくてもいい、まだ大丈夫だから」
地面に向けてそう零すと、少しの間影が揺らいでいるようだったが、やがて動かなくなった。
まだ、大丈夫。エルファリアが傷付いたことに比べたら、大したことではない。この程度の負荷でエルファリアの傷を治せるのなら、もうそれでいい。
彼女はヴェルツェハイトにとっての命綱なのだろうか? それとも吹けば消えてしまう儚い灯?
——どちらも間違ってはいないのかもしれない。けれどどれも正解であって欲しくはなかった。
やがて閉じられたカーテンの縁が白く染まっていく。漏れ出す微かな光に照らされたエルファリアの手を両手でそっと取ってから、壊れることのないように、少しだけ握り締める。
どうか、彼女の負ったあらゆる傷が全て癒えますように。そう願いながら。
それが何に対する祈りかは、もう分からなかった。